白日夢
――普段から落ち着きのないガキだと思っていたが、今日のこいつは何だ?
とらはふわふわと中に浮いたまま、
うしおを気味の悪いものでも見るような目で見下ろす。
当のうしおはとらの視線にも気付かない様子で、
散らかった部屋の中央に腰を下ろしたかと思うと、
またすぐに立ち上がり部屋中をうろうろと歩き回る。
かと思えば壁に貼られた暦を見て大きなため息を吐き、
頭を抱えてうわぁ、だのああ、だの妙な声を上げる。
『おい、何なんだよ?』
声を掛けられて初めて、うしおは部屋にとらがいたことに気付いた。
「何、って……もう時間がねぇんだよぉ」
縋りつかんばかりの勢いで近付いてくるうしおから、とらは慌てて天井付近へと逃げる。
『あ? おめーが"しくだい"をやらねぇのはいつものことじゃねーか』
「そうじゃねーって! だいたいお前はもう用意したのかよ?」
『はぁ? 何をだよ。妖にゃ"がっこ"なんてねーぞ』
「宿題じゃないっての! とらだって……真由子に貰ったんだろ?」
『何をだ?』
「チョコレート。麻子から聞いたぜ、手作りだったんだって?」
"チョコレート"と"手作り"の言葉で、とらは先月の中頃のことを思い出す。
『……あー、そんなこともあったなぁ。で? それが何だ?』
「今日はホワイトデーなんだぞ! 何でそんなに平気なんだよ。
オレ、麻子に何を返したらいいんだよぅ」
赤い顔で半ば八つ当たり気味に喚き散らすうしおの言葉を、とらは遮った。
『おい、アレは喰っちゃならねぇモンだったのか?』
だが、びっくりするほど甘くてすぐに溶けてしまう不思議な菓子を喰わせてくれたのは
外でもなくマユコだったよなぁ……と、とらは首を捻る。
「そうじゃなくて、貰ったらお返しをしないとならないんだよ。それが今日なの」
『へぇ……お返し、ねぇ』
色々と面倒なしきたりがあるようだが、成程、
そういうことなら自分もマユコに何か返さなくてはならねぇな、と思う。
『でよー、どんな物を返すんだ?』
とらの問いにうしおが太い眉を八の字に下げ頭を抱えた。
「指輪とかネックレスとかブレスレットとか……そういう
アクセサリーがいいみたいなんだけど、オレ、そんなの恥ずかしくて買いに行けねーよ」
うしおの返答にとらが鼻の頭に深い皺を刻む。
『あーダメダメ。金属片なんざ身に着けられちゃ敵わん。他に何かねぇのか?』
「他に? 他にはえぇと、クッキーとか飴とか……花も喜ぶみたいだけど……」
『花……か』
菓子の類は妖が買いに行けるものではないが、花なら何とかなりそうな気がした。
「でも花屋で買うのは恥ずかしいしなぁ。ああもう、オレはどうしたら……」
項垂れるうしおを眺めているのは楽しいが、いつまでもうっとおしいままでいられるのも困る。
『いつまでウダウダしてるつもりだ?
買いに行くのが嫌なら……奪うか作るより他に方法はないじゃねーか』
「奪う、はないだろ!」
『そうか? だったら作ればいいじゃねーか。
そうだな、あの女におめぇの得意な絵でも描いてやりゃあいいだろ。
あまり上手いとは言えねぇが、鬼憑き女にゃ描いてやったじゃねーか』
そのひと言でうしおの顔がぱっと輝いた。
「そっか、そうだよな。自分の出来る範囲で用意すればいいんだよな。
とら、お前もたまにはイイこと言うよなー。サンキュー」
勢いよく押入れを開け、画材を取り出そうと頭を突っ込んでゴソゴソやっている後姿に
せいぜい頑張れよ、と声を掛けて、とらは盛大に散らかったうしおの部屋を後にした。
***
『花、ねぇ』
屋根の上でぐるりと辺りを見渡す。
周囲に咲いている花は見えなかったが、そよぐ風に微かに花の気配を感じたとらは、
屋根をひと蹴りすると寺の本堂へと足を向ける。
きれいに掃き清められた境内を照道が花束を抱えて歩いているのが見えた。
あの様子からするに檀家からの届け物だろう。後で活けられて本堂に飾られるのだ。
境内に伸びる木の上でしばらく様子を眺めていると、
照道は縁側に花束を置いて、花を活ける花器を取りにもと来た道を戻って行く。
境内から姿が消えたのを確認してから、とらは音もなく花に近付いた。
色とりどりの花の中から一輪だけ引き抜いて、とらは花を片手に真由子の部屋へと向かった。
***
窓から差し込む春の日差しに、真由子は眩しげに目を細める。
白く霞がかった青い空に一迅の風が吹くと、
ぱっと表情を輝かせた真由子が大きく窓を開け、空に向かって勢いよく手を振った。
きらきらと日の光を纏った金色の風がふわりとレースのカーテンを揺らす。
吹き込んだ風を追って振り返った真由子の顔に満面の笑みが浮かんだ。
「とらちゃん!」
弾む声に金色の大妖怪が姿を現す。
『ほれ。おめぇにやる』
真由子の目の前に差し出されたのは、薄い花びらが幾重にも重なった淡紅色の花だった。
「わ。どうしたの?」
『檀家が持ってきた花束の中から一輪だけ失敬してきた』
とらの顔と目の前の花を交互に見遣りながら、真由子が不思議そうな顔をする。
「どうして?」
『えーと、今日は何だ、その……ほわほわでーとか何とかいう日なんだろ?』
もごもごと口篭った後、とらの口からぼそりと零れた言葉に、
真由子が机の上に置かれた小さなカレンダーを見た。
「あ、ホワイトデー……」
そう小さく呟いた真由子の頬がぽっと桃色に染まる。
「とらちゃん、うしおくんに何か言われたの?」
真由子の問いに、とらは渋い顔をして肩を竦める。
『ギャーギャーと朝から喧しかったぜ。
わしの心配する前にテメーの心配しやがれってんだ。
でもな、別にアイツに言われたからじゃねーぞ』
「……でも、いいの? 持ち出したりして平気?」
『後で本堂に活けるための花だしな。一輪くらい無くても問題ねーだろ。
でもうしおにゃ内緒だぜ?』
とらは悪戯っぽく片目をつぶり、口元に人差し指を立てる。
「ふふ、嬉しい! とらちゃんありがとう」
嬉しそうに笑った真由子が花を受け取り、
ふわりと漂う甘い匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
とらはどんな顔で――この一輪の花を選んでくれたのだろう。
「何でこの花にしたの? 他にもたくさんあったでしょう?」
真由子がそう訊ねると、とらはふい、とそっぽを向いたまま
低い声でぼそぼそと返す。
『何となく、な……。この花がいちばんおめぇに似合いそうだったからよ』
「そっかぁ……」
手の中の花に視線を落とし、真由子がくすぐったそうな表情をする。
『なあ、ちょっといいか?』
真由子の手の中にある花に手を伸ばし、とらは意味ありげに笑った。
「え? なぁに?」
手招きされるままにとらへと近付くと、大きな手が耳に掛かった栗色の髪に上手に花を飾る。
『ふん、思ったとおりだ』
満足げな笑みを零したとらが、真由子を姿見の前へと誘う。
『……な? 悪かねぇだろ?』
鏡に写る自身の姿が一瞬セピア色に見えて、
不意に胸に沸き上がる切なさを伴った懐かしさに息が詰まる。
「あ、れぇ……」
つん、と鼻の奥が痛くなって、見開かれた瞳から急にぽろぽろと涙が溢れた。
『お、おい、どうした? 花に棘でもあったか? 痛ぇのか?』
突然の涙に狼狽したとらが飾られた花に慌てて手を伸ばす。
その手を遮るように真由子は髪に手をやると、ふるふると首を左右に振った。
「違う……の、そうじゃないの。そうじゃなくて……。
とらちゃん……私に花をくれるのって、今日がはじめて、だよね……?」
流れる涙を拭うことも忘れたように、
真由子は困惑の色を浮かべた瞳でとらを見上げる。
『そうだと思うが……』
とらの記憶の片隅をちらりと何かが掠めていく。
遠い…遠い昔、こんなふうに誰かに花を贈らなかっただろうか……。
いや、そんなコトがあるわけねぇ。
誰かに花を贈ったら絶対に忘れるわけがねぇし、
だいたいわしは妖で───妖が花なんぞ贈るものか。
真由子の小さな手が胸元でぎゅっと握り締められる。
遠い…遠い昔、こんなふうに誰かから花を贈られなかっただろうか……。
でも、そんなことがあるわけがない。
誰かから花を贈られたら絶対に覚えているはずだし、
それが目の前の愛しい妖なら───忘れるはずがない。
互いの瞳の奥を覗き込むように見つめあうこと暫し。
『前にも、あったか……?』
恐る恐る尋ねてみれば、目の前の娘は力なく笑って小さく首を傾げる。
「……何か、ずっと前にあったような気がして」
『ずっと前なら……わしじゃねぇだろ』
「そうだよねぇ」
そう答えたものの、真由子はどうも腑に落ちない気持ちを抱えたままでいた。
髪に飾られた花に手を添えたまま、足元に視線を落とす。
じゃあ───じゃあ何でこんなに懐かしくて……こんなに、胸が痛いんだろう……。
物思いに耽る横顔が曇ったのに気付いて、とらが恐る恐る口を開く。
『誰から貰ったんだよ、マユコ』
「分からないの」
『分からないって、何だよ。覚えてねぇのか?』
とらの問いにこくりと頷いて、真由子は目を閉じると囁くような声で呟いた。
「だって……多分すごく昔のことだもの」
『ガキの頃の話か?』
「ううん。そうじゃなくて……」
そう、ずっと、ずーっと昔、まだ――。
「……あの頃よりも、幸せ?」
自身の口から意思とは無関係に零れた言葉に、真由子は大きく目を見開く。
とらには真由子の言う"あの頃"がいつを指すのか分からない。
それでも――その問いの答えはこれ以外ない、と直感でそう思う。
『……ああ』
懐かしい目をした妖が小さく頷くのを見て、
真由子はどこか遠い場所で、何かが柔らかく解けていくのを微かに感じた。
張り詰めていた気持ちが緩み、
膝から崩れ落ちそうになった細い身体を金色の腕が支える。
心配そうに覗き込むその表情が、遠い遠い記憶の欠片と重なって涙が止まらなくなった。
――やっと戻って来られた、この場所。
胸の奥から溢れる思いが言葉になって溢れ出す。
「な、まえ……を、」
『何だって?』
「名前、を……呼んで?」
――そのことだけがずっと、心残りだったから。
『……マユコ』
「もっと」
『マユコ、マユコ』
「と、らちゃん!」
細い腕が思いの外強い力でとらの首筋を抱きしめた。
そのまま肩口に顔を埋め、堰を切ったように泣き出す。
リズムを付けて歌うような調子で、とらは幾度も腕の中でしゃくり上げる娘の名を呼んだ。
丸く柔らかな響きを持つその名を呼びながら、
あやすように宥めるように大きな手で小さな背中を擦る。
腕の中の温もりに、今はもうかたちすら思い出せない心残りが緩やかに解けていくのを、
とらもまたどこか遠い場所に感じていた。
くすん、と鼻を啜る小さな音に、とらは中を漂わせていた視線を腕の中の娘へと戻した。
「とらちゃん、が……」
『……?』
覗き込む怪訝そうな目に照れ臭そうな顔をしながら、涙の絡んだ声で真由子が小さく囁いた。
「とらちゃんが人間ならきっと……すごくモテると思うな」
『はぁ? モテ…ル? 一体何を「持つ」んだ?
だいたい妖の方が力も強ぇし、おめぇら人間の細腕よりはずーっと……』
言葉の意味を取り違えているらしい様子に、真由子がくすくすと小さく肩を揺らす。
「そうじゃなくてね、たくさんの人に好かれるってコトだよ」
『何かよう分からんが……その、モテると何かいいことあんのか?』
改めて問われて、真由子が首を傾げた。
「うーん……嫌われるよりは…好かれた方が、ずっといいと思うんだけど……」
『いくら他の奴に好かれてもよぉ、自分の好いとる奴に好かれなけりゃ意味ねーだろ』
「あー…そうだよねぇ」
『わしを好いとる愚か者は、おめぇひとりでたくさんだ』
鼻先をちょん、と指先でつつくと真由子が小さく首を傾げる。
「それだけ?」
『ちぇっ。人間の女に現を抜かす愚か者はわしだけでいいだろー?』
涙で紅く染まった目元にそっと唇を寄せ、頬に残る涙の跡をゆっくりと辿ると、
腕の中の娘は頭の先まで真っ赤になった。
想いを重ね、こうして互いの体温を感じられるほど側にいられること。
その信じられないくらいの幸運と奇跡。
「とらちゃん……ありがとう」
真由子はそう言って心底幸せそうに笑うと、目の前の金色をぎゅっと抱きしめた。
とらはふわふわと中に浮いたまま、
うしおを気味の悪いものでも見るような目で見下ろす。
当のうしおはとらの視線にも気付かない様子で、
散らかった部屋の中央に腰を下ろしたかと思うと、
またすぐに立ち上がり部屋中をうろうろと歩き回る。
かと思えば壁に貼られた暦を見て大きなため息を吐き、
頭を抱えてうわぁ、だのああ、だの妙な声を上げる。
『おい、何なんだよ?』
声を掛けられて初めて、うしおは部屋にとらがいたことに気付いた。
「何、って……もう時間がねぇんだよぉ」
縋りつかんばかりの勢いで近付いてくるうしおから、とらは慌てて天井付近へと逃げる。
『あ? おめーが"しくだい"をやらねぇのはいつものことじゃねーか』
「そうじゃねーって! だいたいお前はもう用意したのかよ?」
『はぁ? 何をだよ。妖にゃ"がっこ"なんてねーぞ』
「宿題じゃないっての! とらだって……真由子に貰ったんだろ?」
『何をだ?』
「チョコレート。麻子から聞いたぜ、手作りだったんだって?」
"チョコレート"と"手作り"の言葉で、とらは先月の中頃のことを思い出す。
『……あー、そんなこともあったなぁ。で? それが何だ?』
「今日はホワイトデーなんだぞ! 何でそんなに平気なんだよ。
オレ、麻子に何を返したらいいんだよぅ」
赤い顔で半ば八つ当たり気味に喚き散らすうしおの言葉を、とらは遮った。
『おい、アレは喰っちゃならねぇモンだったのか?』
だが、びっくりするほど甘くてすぐに溶けてしまう不思議な菓子を喰わせてくれたのは
外でもなくマユコだったよなぁ……と、とらは首を捻る。
「そうじゃなくて、貰ったらお返しをしないとならないんだよ。それが今日なの」
『へぇ……お返し、ねぇ』
色々と面倒なしきたりがあるようだが、成程、
そういうことなら自分もマユコに何か返さなくてはならねぇな、と思う。
『でよー、どんな物を返すんだ?』
とらの問いにうしおが太い眉を八の字に下げ頭を抱えた。
「指輪とかネックレスとかブレスレットとか……そういう
アクセサリーがいいみたいなんだけど、オレ、そんなの恥ずかしくて買いに行けねーよ」
うしおの返答にとらが鼻の頭に深い皺を刻む。
『あーダメダメ。金属片なんざ身に着けられちゃ敵わん。他に何かねぇのか?』
「他に? 他にはえぇと、クッキーとか飴とか……花も喜ぶみたいだけど……」
『花……か』
菓子の類は妖が買いに行けるものではないが、花なら何とかなりそうな気がした。
「でも花屋で買うのは恥ずかしいしなぁ。ああもう、オレはどうしたら……」
項垂れるうしおを眺めているのは楽しいが、いつまでもうっとおしいままでいられるのも困る。
『いつまでウダウダしてるつもりだ?
買いに行くのが嫌なら……奪うか作るより他に方法はないじゃねーか』
「奪う、はないだろ!」
『そうか? だったら作ればいいじゃねーか。
そうだな、あの女におめぇの得意な絵でも描いてやりゃあいいだろ。
あまり上手いとは言えねぇが、鬼憑き女にゃ描いてやったじゃねーか』
そのひと言でうしおの顔がぱっと輝いた。
「そっか、そうだよな。自分の出来る範囲で用意すればいいんだよな。
とら、お前もたまにはイイこと言うよなー。サンキュー」
勢いよく押入れを開け、画材を取り出そうと頭を突っ込んでゴソゴソやっている後姿に
せいぜい頑張れよ、と声を掛けて、とらは盛大に散らかったうしおの部屋を後にした。
***
『花、ねぇ』
屋根の上でぐるりと辺りを見渡す。
周囲に咲いている花は見えなかったが、そよぐ風に微かに花の気配を感じたとらは、
屋根をひと蹴りすると寺の本堂へと足を向ける。
きれいに掃き清められた境内を照道が花束を抱えて歩いているのが見えた。
あの様子からするに檀家からの届け物だろう。後で活けられて本堂に飾られるのだ。
境内に伸びる木の上でしばらく様子を眺めていると、
照道は縁側に花束を置いて、花を活ける花器を取りにもと来た道を戻って行く。
境内から姿が消えたのを確認してから、とらは音もなく花に近付いた。
色とりどりの花の中から一輪だけ引き抜いて、とらは花を片手に真由子の部屋へと向かった。
***
窓から差し込む春の日差しに、真由子は眩しげに目を細める。
白く霞がかった青い空に一迅の風が吹くと、
ぱっと表情を輝かせた真由子が大きく窓を開け、空に向かって勢いよく手を振った。
きらきらと日の光を纏った金色の風がふわりとレースのカーテンを揺らす。
吹き込んだ風を追って振り返った真由子の顔に満面の笑みが浮かんだ。
「とらちゃん!」
弾む声に金色の大妖怪が姿を現す。
『ほれ。おめぇにやる』
真由子の目の前に差し出されたのは、薄い花びらが幾重にも重なった淡紅色の花だった。
「わ。どうしたの?」
『檀家が持ってきた花束の中から一輪だけ失敬してきた』
とらの顔と目の前の花を交互に見遣りながら、真由子が不思議そうな顔をする。
「どうして?」
『えーと、今日は何だ、その……ほわほわでーとか何とかいう日なんだろ?』
もごもごと口篭った後、とらの口からぼそりと零れた言葉に、
真由子が机の上に置かれた小さなカレンダーを見た。
「あ、ホワイトデー……」
そう小さく呟いた真由子の頬がぽっと桃色に染まる。
「とらちゃん、うしおくんに何か言われたの?」
真由子の問いに、とらは渋い顔をして肩を竦める。
『ギャーギャーと朝から喧しかったぜ。
わしの心配する前にテメーの心配しやがれってんだ。
でもな、別にアイツに言われたからじゃねーぞ』
「……でも、いいの? 持ち出したりして平気?」
『後で本堂に活けるための花だしな。一輪くらい無くても問題ねーだろ。
でもうしおにゃ内緒だぜ?』
とらは悪戯っぽく片目をつぶり、口元に人差し指を立てる。
「ふふ、嬉しい! とらちゃんありがとう」
嬉しそうに笑った真由子が花を受け取り、
ふわりと漂う甘い匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
とらはどんな顔で――この一輪の花を選んでくれたのだろう。
「何でこの花にしたの? 他にもたくさんあったでしょう?」
真由子がそう訊ねると、とらはふい、とそっぽを向いたまま
低い声でぼそぼそと返す。
『何となく、な……。この花がいちばんおめぇに似合いそうだったからよ』
「そっかぁ……」
手の中の花に視線を落とし、真由子がくすぐったそうな表情をする。
『なあ、ちょっといいか?』
真由子の手の中にある花に手を伸ばし、とらは意味ありげに笑った。
「え? なぁに?」
手招きされるままにとらへと近付くと、大きな手が耳に掛かった栗色の髪に上手に花を飾る。
『ふん、思ったとおりだ』
満足げな笑みを零したとらが、真由子を姿見の前へと誘う。
『……な? 悪かねぇだろ?』
鏡に写る自身の姿が一瞬セピア色に見えて、
不意に胸に沸き上がる切なさを伴った懐かしさに息が詰まる。
「あ、れぇ……」
つん、と鼻の奥が痛くなって、見開かれた瞳から急にぽろぽろと涙が溢れた。
『お、おい、どうした? 花に棘でもあったか? 痛ぇのか?』
突然の涙に狼狽したとらが飾られた花に慌てて手を伸ばす。
その手を遮るように真由子は髪に手をやると、ふるふると首を左右に振った。
「違う……の、そうじゃないの。そうじゃなくて……。
とらちゃん……私に花をくれるのって、今日がはじめて、だよね……?」
流れる涙を拭うことも忘れたように、
真由子は困惑の色を浮かべた瞳でとらを見上げる。
『そうだと思うが……』
とらの記憶の片隅をちらりと何かが掠めていく。
遠い…遠い昔、こんなふうに誰かに花を贈らなかっただろうか……。
いや、そんなコトがあるわけねぇ。
誰かに花を贈ったら絶対に忘れるわけがねぇし、
だいたいわしは妖で───妖が花なんぞ贈るものか。
真由子の小さな手が胸元でぎゅっと握り締められる。
遠い…遠い昔、こんなふうに誰かから花を贈られなかっただろうか……。
でも、そんなことがあるわけがない。
誰かから花を贈られたら絶対に覚えているはずだし、
それが目の前の愛しい妖なら───忘れるはずがない。
互いの瞳の奥を覗き込むように見つめあうこと暫し。
『前にも、あったか……?』
恐る恐る尋ねてみれば、目の前の娘は力なく笑って小さく首を傾げる。
「……何か、ずっと前にあったような気がして」
『ずっと前なら……わしじゃねぇだろ』
「そうだよねぇ」
そう答えたものの、真由子はどうも腑に落ちない気持ちを抱えたままでいた。
髪に飾られた花に手を添えたまま、足元に視線を落とす。
じゃあ───じゃあ何でこんなに懐かしくて……こんなに、胸が痛いんだろう……。
物思いに耽る横顔が曇ったのに気付いて、とらが恐る恐る口を開く。
『誰から貰ったんだよ、マユコ』
「分からないの」
『分からないって、何だよ。覚えてねぇのか?』
とらの問いにこくりと頷いて、真由子は目を閉じると囁くような声で呟いた。
「だって……多分すごく昔のことだもの」
『ガキの頃の話か?』
「ううん。そうじゃなくて……」
そう、ずっと、ずーっと昔、まだ――。
「……あの頃よりも、幸せ?」
自身の口から意思とは無関係に零れた言葉に、真由子は大きく目を見開く。
とらには真由子の言う"あの頃"がいつを指すのか分からない。
それでも――その問いの答えはこれ以外ない、と直感でそう思う。
『……ああ』
懐かしい目をした妖が小さく頷くのを見て、
真由子はどこか遠い場所で、何かが柔らかく解けていくのを微かに感じた。
張り詰めていた気持ちが緩み、
膝から崩れ落ちそうになった細い身体を金色の腕が支える。
心配そうに覗き込むその表情が、遠い遠い記憶の欠片と重なって涙が止まらなくなった。
――やっと戻って来られた、この場所。
胸の奥から溢れる思いが言葉になって溢れ出す。
「な、まえ……を、」
『何だって?』
「名前、を……呼んで?」
――そのことだけがずっと、心残りだったから。
『……マユコ』
「もっと」
『マユコ、マユコ』
「と、らちゃん!」
細い腕が思いの外強い力でとらの首筋を抱きしめた。
そのまま肩口に顔を埋め、堰を切ったように泣き出す。
リズムを付けて歌うような調子で、とらは幾度も腕の中でしゃくり上げる娘の名を呼んだ。
丸く柔らかな響きを持つその名を呼びながら、
あやすように宥めるように大きな手で小さな背中を擦る。
腕の中の温もりに、今はもうかたちすら思い出せない心残りが緩やかに解けていくのを、
とらもまたどこか遠い場所に感じていた。
くすん、と鼻を啜る小さな音に、とらは中を漂わせていた視線を腕の中の娘へと戻した。
「とらちゃん、が……」
『……?』
覗き込む怪訝そうな目に照れ臭そうな顔をしながら、涙の絡んだ声で真由子が小さく囁いた。
「とらちゃんが人間ならきっと……すごくモテると思うな」
『はぁ? モテ…ル? 一体何を「持つ」んだ?
だいたい妖の方が力も強ぇし、おめぇら人間の細腕よりはずーっと……』
言葉の意味を取り違えているらしい様子に、真由子がくすくすと小さく肩を揺らす。
「そうじゃなくてね、たくさんの人に好かれるってコトだよ」
『何かよう分からんが……その、モテると何かいいことあんのか?』
改めて問われて、真由子が首を傾げた。
「うーん……嫌われるよりは…好かれた方が、ずっといいと思うんだけど……」
『いくら他の奴に好かれてもよぉ、自分の好いとる奴に好かれなけりゃ意味ねーだろ』
「あー…そうだよねぇ」
『わしを好いとる愚か者は、おめぇひとりでたくさんだ』
鼻先をちょん、と指先でつつくと真由子が小さく首を傾げる。
「それだけ?」
『ちぇっ。人間の女に現を抜かす愚か者はわしだけでいいだろー?』
涙で紅く染まった目元にそっと唇を寄せ、頬に残る涙の跡をゆっくりと辿ると、
腕の中の娘は頭の先まで真っ赤になった。
想いを重ね、こうして互いの体温を感じられるほど側にいられること。
その信じられないくらいの幸運と奇跡。
「とらちゃん……ありがとう」
真由子はそう言って心底幸せそうに笑うと、目の前の金色をぎゅっと抱きしめた。