桜雨
『準備、出来とるか?』
「うん!」
窓から覗き込む金色の影に、真由子が満面の笑みで大きく頷いた。
発端は、この時期ニュースで頻繁に耳にする「桜前線」という言葉。
みかど市の桜が咲くのは4月に入ってからだが、日本は南北に長い。
当然、みかど市より南の地では既に桜が咲いているのだ。
朝に晩に、ニュースを見ては、校庭の桜の木を眺めては、
その薄紅色の花が咲くのを心待ちにしている真由子に、とらは事も無げにこう言った。
『そんなに待ち遠しいなら、咲いてる場所まで見に行けばいいじゃねーか』
***
春霞にけぶる新緑の山並みを越え、とらは真由子を背中に乗せ南を目指して高く飛ぶ。
3月の風は少し冷たく、まだ冬の名残を感じさせた。
とらの広い背中に顔を埋め、真由子は伝わる温もりに安堵の息を吐く。
とくん、とくん、とくん。
規則正しく刻まれる暖かな音に目を細め、全身を包む柔らかな毛並みを存分に貪る。
そうしているうちに――つい、ウトウトと眠ってしまったようだ。
『ほれ、着いたぜ』
その声に眠い目を擦り重いまぶたを開けると、視界いっぱいに薄紅色の桜の花が広がっていた。
「わ、ぁ……」
山の奥でひっそりと佇む桜の古木は今を盛りと咲き誇り、
時折吹くそよ風にはらはらと淡い色の花びらを散らす。
がばりと勢いよく身体を起こし、真由子はとらの背中からいそいそと降りた。
『……ったく。緊張感のねぇこった』
身体を解すように大きくひとつ伸びをしながら、とらが低い声でぼそりと呟く。
何事かと振り返った真由子に、とらが大袈裟な溜息をひとつ吐いた。
『おめぇ、わしの背中で寝てやがったな』
突っ伏して寝ていたのだろう。
真由子の赤くなった右の頬に、とらがそっと指先を伸ばした。
『ここ、赤くなっとるぞ』
指先が触れると同時に真由子の白い顔がぱっと赤くなり、たちまち頬の赤みを隠す。
「だって…とらちゃんの背中、広くて温かかったんだもん」
それに……と、真由子は胸の中でひとりごちる。
とらちゃんの背中は――陽だまりの匂いがするんだもの。
『なぁに笑っとる?』
ふふ、と緩んだ口元にとらが怪訝そうな顔をした。
「ナ・イ・ショ」
照れ臭そうにくるり、と踵を返し、真由子はとらに背を向けると満開の桜の花を仰ぎ見る。
花の間から見える青空は、溜息が出るほどキレイだ。
緩く吹いた春風に散る花びらを求め、真由子は両手を伸ばして薄紅色を追う。
するり、するりと指の間をすり抜けていく花びらを、飽きもせずに掴もうと手を伸ばす。
金色の巨体を桜の幹に預けるように凭れさせ、
そんな真由子のあどけない仕草に目を細めていたとらがふ、と口元に笑みを浮かべた。
小さく風を起こし、散り落ちた花びらを巻き上げると頭上から雪のように降らせると、
薄紅色の桜の雨に真由子が顔を輝かせて両手を空へと伸ばした。
髪に肩に頬に、降り注ぐ花びらにくすぐったそうに笑うと、
息を弾ませてとらの元へと駆け寄る。
「とらちゃん、連れて来てくれてありがとう」
『へっ。別に礼を言われるほどのコトでもねーや』
「もう、またそんなコト言って……」
『下らねぇコト言ってンじゃねぇ』
照れ臭さを隠し切れない不機嫌そうな顔に、
真由子は柔らかな笑みを向けると、濡れた鼻先を宥めるようにそっと撫でた。
何の躊躇いもなく鼻先に触れた手の冷たさに、とらは思わず丸く目を見開く。
『うぉっ……! また随分と冷えちまってるじゃねーかよ』
「あ……とらちゃん、冷たかった?」
慌てて引っ込めた小さな手を、大きな手が追いかけて包み込むように捕まえる。
その手をぐい、と引き寄せ、とらは小さな身体ごと胸元へ攫った。
『ビョーキにでもなられて味が落ちちまったんじゃ、元も子もねーぞ』
「えへへー。とらちゃん、優しい!」
真由子は細い腕でとらの首筋をぎゅっと抱きしめ、肩口に顔を埋める。
触れた場所から徐々に伝わる温もりに思わず漏れ出た溜息が、とらの項をくすぐった。
ぞくぞくと背筋を這い上がる妙な感覚に、思わず声を荒げてしまう。
『ばっ……! 何してやがる!』
「え? 何?」
とらの驚いた声に、真由子が慌てたようにとらの顔を覗き込む。
「とら、ちゃん……?」
小さく名を呼んだ赤い口元は、その顔の白さと相まって一際目を引いた。
触れずとも分かる。それは今まで味わった何よりも柔らかで甘いのだろう。
分かりきったことではあるが、確かめずにいられなかった。
『こんな場所にも花びらが乗っかってやがる……』
「え……」
伸ばした指先でそっと紅色を撫でると、引き寄せられるままに顔を近付ける。
羽が触れる程の軽やかさで唇を触れ合わせると、大きな目がますます見開かれた。
「今、の……今の、何?」
今触れたばかりの唇が小さく言葉を紡ぐ。
『何って。その……味見、だ』
「味見? 何で?」
自分の身に起こっていることが飲み込めないのか、
真由子がとらにぶつける質問は何だか間の抜けたものばかりだ。
『美味そうだったから、味見だ』
真顔で詰め寄られ、何となく気まずさを覚えたとらは思わず目を逸らす。
真由子の両手が金色の髪を掴み、とらの顔をぎゅっと引き寄せた。
「味見?」
『……ああ』
覗き込む真剣な眼差しに気圧されながら、とらは真由子の問いに肯定の返事をする。
味見……と小さく呟いて、真由子は指先で自身の唇に触れた。
「その後、は?」
『後?』
真由子の口から零れた思い掛けない言葉に、今度はとらが目を丸くする番だった。
「だから、その……味見だけなの? それとも」
消え入りそうなか細い声。真っ赤な顔と潤んだ瞳。
絡み合った視線に、その先を望んでいるのが自分だけじゃないことに気付く。
『……もう少し、味見してもいいか?』
柔らかな眼差しに、真由子は小さく頷いて目を閉じる。
閉じられたまぶたに啄むような口付けを落とし、
とらはその温もりと甘さを確かめるように、再びそっと唇を重ねた。
満開の桜の木の下、幾度も口付けを交わすふたりの姿を、
風に舞う桜の雨が優しく包んでいった。
「うん!」
窓から覗き込む金色の影に、真由子が満面の笑みで大きく頷いた。
発端は、この時期ニュースで頻繁に耳にする「桜前線」という言葉。
みかど市の桜が咲くのは4月に入ってからだが、日本は南北に長い。
当然、みかど市より南の地では既に桜が咲いているのだ。
朝に晩に、ニュースを見ては、校庭の桜の木を眺めては、
その薄紅色の花が咲くのを心待ちにしている真由子に、とらは事も無げにこう言った。
『そんなに待ち遠しいなら、咲いてる場所まで見に行けばいいじゃねーか』
***
春霞にけぶる新緑の山並みを越え、とらは真由子を背中に乗せ南を目指して高く飛ぶ。
3月の風は少し冷たく、まだ冬の名残を感じさせた。
とらの広い背中に顔を埋め、真由子は伝わる温もりに安堵の息を吐く。
とくん、とくん、とくん。
規則正しく刻まれる暖かな音に目を細め、全身を包む柔らかな毛並みを存分に貪る。
そうしているうちに――つい、ウトウトと眠ってしまったようだ。
『ほれ、着いたぜ』
その声に眠い目を擦り重いまぶたを開けると、視界いっぱいに薄紅色の桜の花が広がっていた。
「わ、ぁ……」
山の奥でひっそりと佇む桜の古木は今を盛りと咲き誇り、
時折吹くそよ風にはらはらと淡い色の花びらを散らす。
がばりと勢いよく身体を起こし、真由子はとらの背中からいそいそと降りた。
『……ったく。緊張感のねぇこった』
身体を解すように大きくひとつ伸びをしながら、とらが低い声でぼそりと呟く。
何事かと振り返った真由子に、とらが大袈裟な溜息をひとつ吐いた。
『おめぇ、わしの背中で寝てやがったな』
突っ伏して寝ていたのだろう。
真由子の赤くなった右の頬に、とらがそっと指先を伸ばした。
『ここ、赤くなっとるぞ』
指先が触れると同時に真由子の白い顔がぱっと赤くなり、たちまち頬の赤みを隠す。
「だって…とらちゃんの背中、広くて温かかったんだもん」
それに……と、真由子は胸の中でひとりごちる。
とらちゃんの背中は――陽だまりの匂いがするんだもの。
『なぁに笑っとる?』
ふふ、と緩んだ口元にとらが怪訝そうな顔をした。
「ナ・イ・ショ」
照れ臭そうにくるり、と踵を返し、真由子はとらに背を向けると満開の桜の花を仰ぎ見る。
花の間から見える青空は、溜息が出るほどキレイだ。
緩く吹いた春風に散る花びらを求め、真由子は両手を伸ばして薄紅色を追う。
するり、するりと指の間をすり抜けていく花びらを、飽きもせずに掴もうと手を伸ばす。
金色の巨体を桜の幹に預けるように凭れさせ、
そんな真由子のあどけない仕草に目を細めていたとらがふ、と口元に笑みを浮かべた。
小さく風を起こし、散り落ちた花びらを巻き上げると頭上から雪のように降らせると、
薄紅色の桜の雨に真由子が顔を輝かせて両手を空へと伸ばした。
髪に肩に頬に、降り注ぐ花びらにくすぐったそうに笑うと、
息を弾ませてとらの元へと駆け寄る。
「とらちゃん、連れて来てくれてありがとう」
『へっ。別に礼を言われるほどのコトでもねーや』
「もう、またそんなコト言って……」
『下らねぇコト言ってンじゃねぇ』
照れ臭さを隠し切れない不機嫌そうな顔に、
真由子は柔らかな笑みを向けると、濡れた鼻先を宥めるようにそっと撫でた。
何の躊躇いもなく鼻先に触れた手の冷たさに、とらは思わず丸く目を見開く。
『うぉっ……! また随分と冷えちまってるじゃねーかよ』
「あ……とらちゃん、冷たかった?」
慌てて引っ込めた小さな手を、大きな手が追いかけて包み込むように捕まえる。
その手をぐい、と引き寄せ、とらは小さな身体ごと胸元へ攫った。
『ビョーキにでもなられて味が落ちちまったんじゃ、元も子もねーぞ』
「えへへー。とらちゃん、優しい!」
真由子は細い腕でとらの首筋をぎゅっと抱きしめ、肩口に顔を埋める。
触れた場所から徐々に伝わる温もりに思わず漏れ出た溜息が、とらの項をくすぐった。
ぞくぞくと背筋を這い上がる妙な感覚に、思わず声を荒げてしまう。
『ばっ……! 何してやがる!』
「え? 何?」
とらの驚いた声に、真由子が慌てたようにとらの顔を覗き込む。
「とら、ちゃん……?」
小さく名を呼んだ赤い口元は、その顔の白さと相まって一際目を引いた。
触れずとも分かる。それは今まで味わった何よりも柔らかで甘いのだろう。
分かりきったことではあるが、確かめずにいられなかった。
『こんな場所にも花びらが乗っかってやがる……』
「え……」
伸ばした指先でそっと紅色を撫でると、引き寄せられるままに顔を近付ける。
羽が触れる程の軽やかさで唇を触れ合わせると、大きな目がますます見開かれた。
「今、の……今の、何?」
今触れたばかりの唇が小さく言葉を紡ぐ。
『何って。その……味見、だ』
「味見? 何で?」
自分の身に起こっていることが飲み込めないのか、
真由子がとらにぶつける質問は何だか間の抜けたものばかりだ。
『美味そうだったから、味見だ』
真顔で詰め寄られ、何となく気まずさを覚えたとらは思わず目を逸らす。
真由子の両手が金色の髪を掴み、とらの顔をぎゅっと引き寄せた。
「味見?」
『……ああ』
覗き込む真剣な眼差しに気圧されながら、とらは真由子の問いに肯定の返事をする。
味見……と小さく呟いて、真由子は指先で自身の唇に触れた。
「その後、は?」
『後?』
真由子の口から零れた思い掛けない言葉に、今度はとらが目を丸くする番だった。
「だから、その……味見だけなの? それとも」
消え入りそうなか細い声。真っ赤な顔と潤んだ瞳。
絡み合った視線に、その先を望んでいるのが自分だけじゃないことに気付く。
『……もう少し、味見してもいいか?』
柔らかな眼差しに、真由子は小さく頷いて目を閉じる。
閉じられたまぶたに啄むような口付けを落とし、
とらはその温もりと甘さを確かめるように、再びそっと唇を重ねた。
満開の桜の木の下、幾度も口付けを交わすふたりの姿を、
風に舞う桜の雨が優しく包んでいった。