春の野にて

「すごーい! こんなにたくさんのれんげの花、初めて見たよ」
一面に広がるれんげ草の薄紅色と若緑のコントラストに華やいだ声を上げると
真由子は傍らのとらに嬉しそうな笑みを向けた。
『桜もいいが、こういう花も悪かねぇだろ』
「うん!」
普段はとらとふたり、部屋でとりとめもない話をしながら過ごすことが多いのだが、
今日は暖かな日差しに誘われて部屋を飛び出し、郊外まで足を伸ばしたのだった。
『この辺まで来ちまえば空気も美味ぇな』
柔らかな緑の上に腰を下ろしたとらは、両腕を天へと伸ばし大きく伸びをする。
「ふふ。ここならとらちゃんとノンビリしていても大丈夫だね」
ワンピースの裾をひらりと翻して、
真由子はれんげ畑の中に勢いよく足を踏み入れる。
膝丈ほどの花がゆらりと揺れ、甘い匂いが辺りに漂った。
「わ、ぁ……」
どこか懐かしい優しい匂いに顔を綻ばせて、
真由子はれんげ畑に腰を下ろしゆっくりと花を摘み始めた。
その真剣な横顔にとらはふと表情を緩めると、
白く霞がかった青空を見上げながらごろりと横になる。
穏やかな春の日差しに眠気を誘われ、うとうととまどろんでいると
弾んだ声が耳に飛び込んできた。
「出来た!」
その声にとらがむくりと身体を起こすと、
すぐ側に薄紅色の何かを両手で頭上に翳す真由子の姿があった。
『何が出来たんだ?』
欠伸混じりの声でそう尋ねると、真由子は得意げな顔で手にしたそれを差し出す。
手のひらに乗せられたそれは、れんげの花で丁寧に編まれた花の冠だった。
『ほぉ、案外良く出来てるじゃねーか』
「でしょー。子供の頃、麻子と一緒に作ったきりだったんだけど、
こういうのって案外覚えているものなんだねぇ」
そう言って真由子は懐かしげに目を細める。
『この大きさだと……こう、だな』
とらは真由子の頭の上にそっと花で編んだ冠を載せた。
「似合う?」
ぽっと頬を染めた嬉しそうな顔で、真由子はとらを見上げる。
『妙ちきりんなカナモノで出来た「あくせさりぃ」とやらよりはずっとマシだな』
「ふふ。嬉しいー! でもね、これはとらちゃんにあげようと思って作ったんだよ」
頭に載せられた花冠に手をやって、真由子が歌うようにそう言った。
『ばぁか。こういうのはおめぇの方が似合うんじゃねーのか』
「とらちゃんだって似合うと思うよ」
真由子は立ち上がって背筋を伸ばすと、神妙な顔でとらの顔をまっすぐに見つめる。
「とらちゃん、左手出してくれる?」
『あ? 何するんだ?』
言われるまま差し出される大きな左手。
真由子はその薬指に薄紅の花輪をそっと嵌めた。
「あ、大きさはちょうど良かったねぇ」
『……どういうことだ?』
事情が飲み込めないのか、とらは怪訝そうな顔で真由子を見つめる。
「金属が苦手なとらちゃんでも、花で作った指輪なら大丈夫かなぁ、って」
『ゆびわ……?』
聞き覚えのある言葉に、とらは記憶の引き出しを引っ繰り返す。
『そういやぁ「けっこんしき」とかいう儀式とやらで、
ニンゲンは金属の輪っかを互いの指に嵌めて喜んでやがったなぁ。
……それのことか?』
「うん。エンゲージリングというか……花だからいつまでも残して置けるものじゃないけど、
指輪交換とかね、してみたかったんだよ」
もじもじと恥ずかしげに俯く真由子の言葉にとらは首を捻った。
『だったら……もうひとつ必要なんじゃねーのか。おめぇの分はどうした?』
下らない、と言われると思ったのに、思うよりずっと真顔で返されて、
真由子は目をぱちぱちと瞬かせる。
「ないよ」
『ない?』
「うん」
『何でないんだ?』
「何で、って……。だって、自分の分を自分で作るのは、ねぇ」
そう言って真由子はとらの目を見つめてふふふ、と淡く笑った。
言葉にしてしまえば追い込まれるのは明らかなのに――
意味有りげな視線に急かされるまま、とらはつい尋ねてしまう。
『……わしが作る、のか?』
その問い掛けに含まれた肯定の響きに、真由子はぱあっと表情を明るくすると
もうひと押しとばかりにお願いの言葉を口にする。
「とらちゃん、作ってくれる……?」
それは控えめ過ぎるくらいに控えめな頼み事。
拒絶は容易いはずなのに、どうにもこの娘の申し出には逆らえないものがある。
傍らで風に揺れるれんげ草と、真由子の期待に満ちた瞳を交互に見遣って、
とらは降参とばかりに小さく溜息を吐いた。
『……わぁったよ』
嬉しいとその場で飛び上がらんばかりに喜ぶ真由子に、とらはやれやれと肩を竦める。
なるべく見栄えのいいれんげの花を三本摘んでみたが、
その花はあまりに小さく、己の指で編むことなど到底不可能に思える。
どうしたものかと頭を掻いて、指先に触れた髪を一筋抜き取ると、
その細い金糸で花の根本を括った。
薄緑の茎は指先で慎重に潰し、柔らかくしてから糸をくるくると巻き付け、
一本のひも状に縒り合わせていく。
「わ! とらちゃん器用だねぇ」
とらの手元を熱心に覗き込んでいた真由子が小さく歓声を上げた。
『ほれ、おめぇも左手を寄越せ』
「うん」
そっと差し出された左手を取り、細い薬指に茎を緩く巻くと
それは意思を持っているかのようにひとりでに輪を作り、
真由子の指にぴったりの大きさになった。
『こんなモンか』
「わ、ぁ……」
白い指先の根本で咲き誇る薄紅の花が小さく揺れる。
目の前に翳しうっとりと指輪を見つめた後、
真由子はとらの首筋にぎゅっと抱きついた。
「とらちゃん、ありがとう!」
胸元に飛び込んできた細い身体を抱きとめて、とらは空を仰ぐ。
我ながらこいつにゃ甘いと思うが、今更どうにもならない。
頼まれ事に応じてやった後で真由子が見せる極上の笑顔に抗えるわけがないのだ。
うららかに晴れた青空の下、顔を見合わせ笑みを交わすふたりの頭上で、
春を呼ぶ雲雀が賑やかにさえずる声を響かせた。



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