初恋の君

「ぼくのおよめさんになってくれる?」
「うん! おっきくなったらけっこんしてあげるー」
無邪気な、でも純粋な約束の言葉が不意に真由子の耳に飛び込んできた。
ノンビリと歩を進める横を擦り抜け、手を繋ぎ駆けて行く小さな後ろ姿に、
真由子は口元に小さく笑みを浮かべる。
「ふふ……私にも、あんな頃があったのよねー」
呟くようにそう言うと、ふわり、と吹いた風に乗って低く囁くような声がした。
『当然だろー』
声のする方を振り仰いで、真由子が幸せそうに笑う。
目の前には眩いばかりの金色。真由子にだけ見える美しい妖。
「麻子ともうしおくんとも、あのくらいからの付き合いなのよ」
そう言って真由子は懐かしそうな目をして暮れていく空を見上げた。
ふたりとも、ずっと幼い頃から、ずっと一緒に過ごして来た大切な幼馴染。
「あの子たち、お互いが初恋の相手なのかな。いいなぁ……」
小さく零れた声に混じった切なげな響きに、とらの長い耳がぴくりと動いた。
『マユコ』
「なぁに?」
くるくるとよく動く大きな目がとらをじっと見つめる。
『何がどう「いい」んだ?』
「あのねぇ……「初恋は実らない」って言われるくらい、
初めて好きになった人と結ばれるのは、すごーく難しいんだよ」
『ふぅん…そういうコトか。そりゃ……おめぇらの世界じゃ普通なんじゃねーのか?』
長く生きたところでせいぜい100年程度がやっとのくせに、
人間共は暇さえあれば色恋事に現を抜かしているように見える。
よくもまあ飽きずに繰り返せるものだ……と半ば呆れながら日々ワイドショーを眺めるとらなのだ。
「そうだよねぇ……」
真由子の横顔にちらりとよぎった寂しげな色に、とらは僅かに鼻の頭にしわを寄せた。
『おめぇの初恋とやらは、あのクソガキだろ?』
えへへ…と恥ずかしげに笑った後で、真由子はとらに尋ねる。
「ねぇ、とらちゃんは?」
『……は?』
真由子の質問の意味が分からず、とらはきょとんと目を見開く。
「とらちゃんの初恋は……いつ、どんな人と? その恋は……実った?」
『はぁ?……わしゃ妖だぞ?』
「うん。でもほら、その姿の前は、人……だったんだよね?」
『……覚えてねぇよ……』
ゆるゆると首を左右に振って、とらは真由子の頭をくしゃくしゃと撫でる。
夕日に照らされた真由子の髪が赤く染まり、小さな手が淡く微笑む口元を覆った。
その姿が──遠い昔の記憶とゆっくり重なっていく。
あの頃、あんなに恐れられ、疎まれていた自分を決して怖がらず、
いつだって笑顔を見せ、受け入れてくれた優しい姉弟の……姉の姿に。
誰よりも護りたいとそう強く願ったのに。
あの頃、大事なものは何もかも手のひらから零れ落ち、二度とその手には戻らなかった。
もう戻れない、遠い……遠い昔の話だ。
「……とらちゃん?」
視線は真由子に向けられているのに、とらは自分ではなくどこか遠くを見るような目をしている。
穏やかで優しいのに酷く寂しげなその目に、真由子の胸はぎゅっと縮んで小さな痛みを覚える。
もう一度小さく名を呼ぶと、夢から覚めたような顔でとらは真由子を見つめた。
『マユコ……』
「なぁに?」
『そうだな……人間だった頃はたしかにそうだが……』
聞き取れない程小さな呟きは、風に乗って遠くへと流されていく。
「え……?」
その声を聞き漏らすまいと、精一杯背伸びしてとらを見上げる不思議そうな顔。
その耳元に唇を寄せて、とらは低く囁く。
『……妖のわしの初恋とやらは、おめぇだな』
槍から解放されてはじめて「喰いたい」と思った娘は、
他の誰とも違っていて──今思えば「特別」だったのだ、最初から。
真由子は目を丸くしてとらをじっと見つめる。
真剣な眼差しにとらが小さく首を傾げると、その張り詰めたような表情がふ、と和らいだ。
「だったら……とらちゃんの初恋は、実るよ」
見る間に耳まで赤くなった真由子が恥ずかしげに、でもとても嬉しそうにそう言った。
『ばぁか。当然だろ? わしはおめぇと……誓っちまったからな』
「うん」
『それともおめぇは……初恋の相手との方が、よかったか?』
とらの言葉に真由子は笑って首を左右に振る。
「ううん。だって……今はねぇ、初恋の人よりも大好きなヒトが側にいるもの」
真由子の言葉にふん、と鼻を鳴らして、とらは大きな手で小さな手を取った。
『暗くなると冷えちまうだろ。……早く、帰るぞ……』
夕日に照らされて長く伸びた影はひとつ。
でも、いつだってこんなに近くにいてくれる愛しい存在。
繋いだ手を互いにぎゅっと握り締めて、ふたりは暮れ行く空の下、同じ家路を急いだ。



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