二人の夏

「とらちゃん、私ね、海が見たいな」
夏休みも終わりに近付いたある日、いつものようにふらりと遊びに来たとらに真由子が唐突に言った。
『海ぃ? もう時期外れじゃねーのか?』
お盆も明けてそろそろ海の家も店じまいをし、海辺からは人が姿を消す時期だ。
「うふふ。何だかねぇ、急に波の音が聞きたくなったの。……連れてって、くれる?」
真由子が期待のこもった眼差しでとらの顔を覗き込む。
たっぷり見つめ合った後で、根負けしたのかとらが小さく笑った。
『……ああ、構わねぇぜ』
そう言ってとらは姿勢を低くする。
「えへへ……。とらちゃん、ありがとう」
ぱっと顔を輝かせると、真由子はとらの背後に回り大きな背中にいそいそとよじ登った。
『しっかり掴まってろよ! 飛ばすぜ!』
言葉とは裏腹に、するすると伸びてきて身体に巻きついた金色の髪を見て、真由子が嬉しげに笑う。
真由子の身体を背中に固定して、とらは地面を蹴ると空中へ飛び出し勢いよく走り出す。
目に映る景色があっという間に風になって後ろへ流れていく。
スピードは相当出ているのに、真由子はちっとも怖くなかった。
(それはきっと…とらちゃんと一緒、だからよねぇ)
真由子は身体を倒すと、とらの大きくて温かな背中にそっと顔を埋めた。

***

髪を巻き上げる風の中に、微かに潮の匂いが混じり始める。
風を切って走るとらがひときわ高く跳躍する。
『ほれ、見えてきたぞ』
「わぁ……きれい……」
目の前に広がったのは、日の光をきらきらと反射する大海原。
急に潮の匂いが強くなる。吹き抜ける風にとらの金色の髪がなびいた。
『どっかに降りるか?』
「うん……。砂浜がいいな」
真由子の言葉にとらは下界に視線を落として砂浜を探す。
『あの辺でいいか?』
とらの指差した場所に目を凝らすが、真由子の目では「あの辺」が捉えられない。
「えっと……。遠くて……よく見えない……」
『んーだよ。見えねぇかよ』
ぷぅ、と頬を膨らませて、とらは自身が指差した砂浜に向かって下降する。
そこは三方を岩に囲まれた小さな入り江のようになった場所。
とらはふわりと砂の上に降り立つ。
『ここでいいか?』
真由子はとらの背中から砂の上に降りると、辺りを見回して口を開く。
「わっ、素敵! ここならとらちゃん、姿を消さなくても平気よね」
波の音と緩やかに吹く潮風。
夏の終わりの日差しの中で、真由子が弾けんばかりの笑顔をとらに向けた。

***

砂浜に打ち上げられた流木に真由子は腰を降ろす。
「とらちゃん、ここに座ろうよー」
自身の隣をぽんぽんと叩いて、真由子がふわふわと中に浮いているとらを呼んだ。
小さな風と一緒に、とらは真由子の隣に座る。
「とらちゃん、ありがとう」
にこにこととらの顔を見上げた後で、真由子がぺこりと頭を下げる。
『けっ。別に礼を言われるほどのことでもねーや』
照れたようにそっぽを向くとらを見て、真由子がくすくすと笑みを零す。
『それになぁ、さっきは時期外れだと言ったが……。
夏に海に来るなら、本当はこの時期の方がいいんだせ』
緑とも青ともつかないような沖合いの色を眺めながら
とらがそんなことを言う。
「そうなの?」
『ああ。盆の明ける前の海は危ねぇんだよ。呼ばれちまうからな……』
「えぇ?……どういうこと?」
不思議そうな顔をしている真由子にちらりと視線をやって、とらは言葉を続ける。
『盆とか彼岸ってのは……こっち側と向こう側を繋ぐ門が開く時期でもあるのよ。
人間が死んだ奴のために迎え火とか送り火焚いたり、墓参りしたりするのはそういうことだな。
もっとも、死んだ奴がみんな成仏してるわけじゃねぇし、
成仏できねぇ奴とかひとりで寂しい奴が手招きしてる時期でもあるのさ。
水辺は特に霊が留まりやすいみてぇだし、
この時期水の事故が多いのは……そういうことでもあるんだぜ』
「ふぅん……」
目の前に広がる海はこんなに穏やかなのに。
穏やかなだけじゃないのは分かっていたけれど……。
遠くを眺めるとらの横顔がどことなく寂しそうに見えて、真由子は胸がきゅっと苦しくなる。
『おめぇみてぇなトロくて美味そうな人間は奴らの格好の餌食だからよ、
盆の時期にひとりでふらふらと水辺に近付くんじゃねぇぞ』
真由子の不安げな視線に気付いたのか、とらがおどけたような口調でそんなことを言う。
「ひどいなぁ。でも……とらちゃんが一緒なら平気でしょ?」
『あぁ?』
怪訝そうな声を上げるとらに向かって、真由子は片目をつぶってみせる。
「ひとりで海なんて来ないよ。キレイなものはねぇ……とらちゃんとふたりで一緒に見たいもの」
『けっ。下らねぇ』
とらのそっけないひと言も、真由子の笑顔の前であっけなく潮風に吹かれ流されていく。

***

波打ち際に白く泡立つ波の音。吹き抜ける風の音。
時折思い出したように鳴くカモメの声。
とらと並んで座ったまま、真由子はただ黙って目の前の海を眺めていた。
日が西に傾きはじめて、少し肌寒さを感じた真由子は、
とらとの間の僅かな隙間を詰め、寄り添うように座りなおす。
『……寒くなっちまったか?』
ぴったりとくっついてきた真由子にちらりと視線をやって、とらが尋ねる。
「うん……」
『もう帰るか?』
とらの問いに真由子は首を左右に振った。
「ううん、もう少し。夕日が落ちるところが見たい……」
ふ、と小さなため息を漏らして、とらが身じろぎする。
『……寒ぃなら、こっちへ来な』
大きな腕が真由子の小さな身体を攫って、膝の間に収めた。
あっという間にとらの胸元にすっぽりと抱かれるような格好になって、真由子は驚いてとらを見上げる。
『ここなら、寒くねぇだろ?』
とらの声が上から降って来て、頭の上にそっと顎が乗せられた。
「うん……。あったかい……」
真由子はほぉ、っと息を吐くと、安心したように目を閉じた。
『何だおい、おめぇ、随分冷えちまってんなぁ……』
そう言って、とらは真由子を抱く腕に力を込める。
「とらちゃんは、寒くないの?」
目を閉じたまま、とらの胸に凭れた真由子が小さく尋ねる。
『わしゃ妖だ。暑さにも寒さにも……おめぇよりはずっと強いぜ』
「そうなんだ……」
何となく言葉が途切れる。
真由子から周りの音が、風が遠ざかって、感じるのはとらの温かさと鼓動だけになった。
「とらちゃん」
『何だよ、マユコ』
「あの……あのね、本当は海を見ながらお喋りとかしようと思ってたんだけど、
何も言えなくなっちゃった……。ゴメンネ……」
『何で謝る?……わしゃ退屈しなけりゃ何でもいいのよ』
「でも……。さっきから何もしてないけど、つまらなくない?」
真由子の問いにとらが不思議そうな顔をする。
『あぁ? 何もしてないこたぁねぇだろ。海を見てるじゃねぇか』
「だけど……それだけだよ?」
『おめぇは、退屈でつまらないのか?』
「ううん、そんなことないよ! とらちゃんと一緒の時間はいつも楽しいよ」
慌ててそう答える真由子に、とらは淡く笑うと低い声で小さく言葉を返した。
『だろ?……そう思っているのは、おめぇだけじゃねぇってことさ』
とらの囁きに真由子は顔を赤くすると恥ずかしげに俯いてしまう。
少しずつ傾いていく太陽が水平線に近付くと、海の色が徐々に青から金色へと変わる。
『ほれ、見たがってた夕日が落ちる頃だぜ』
空も海も赤く染めて、水平線に太陽がゆっくりと沈んでいく。
「わぁ…すごーい!! とらちゃん、きれいだねぇ……」
そう言ってとらを見上げた真由子の視線と、真由子を見つめていたとらの視線がぶつかった。
逸らすことが出来ずに、真由子はそのままとらの顔を見上げている。
さらりと零れた金色の髪が真由子の頬に触れた。
ゆっくりと近付いてくるとらの顔。
今日一日の終わりを告げる眩い光の中で、ふたりの唇が静かに重なった。



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