朝から降っていた憂鬱な雨は、オレが帰る頃には止んでいた。
どんよりと低く垂れ込めた雲が、風に吹かれて見る間に遠くへと流されていく。
空がだんだんと明るくなって、ちぎれた雲間から降り注ぐ日の光。
幾筋もの細い光が天と地を繋いでいく様子を足を止めて眺めていた。
ああ、何か……とらの髪みたいだな。
日の光に透けた、金色の。
頭上からさあっと射し込んできた光が頬を撫でたような気がして、
オレは思わず空を仰いでしまった。
……いるわけ、ねぇよなぁ……。
とらはオレの目の前で消えたんだから。
満足げに笑ってオレだけを置き去りに、して。
獣の槍を使っていたオレは、同じように獣の槍を使っていたとらにはなれなかった。
──妖はどっちにしろ、いつかは蘇るがな──
オレがとらの名を呼び続けたらいつかあいつに届いて……オレの元へ戻ってくるだろうか。
「……とら……」
空を見上げたまま口の中で小さく呼んだら、目の奥が熱くなった。
慌てて唇を噛んで、溢れそうになったものを身の内へ押し留める。
──獣は涙を流さねえ。おめえなんざ…わしにゃなれねえよ──
泣かずにいればいつか獣になって……とらになれるだろうか。
オレがとらになるのと、とらが蘇ってオレの元へ戻ってくるのとだったら、一体どっちが早いだろう。
***
ふと気が付くと薄ぼんやりと明るい、暖かくも寒くもない場所にとらはいた。
どうやら……今まで眠っていたようだ。
横たわった身体の下に柔らかな草の感触を感じ、よそぐ風の中に淡く花の匂いが混じっている。
寝転がったまま辺りを見渡せば、ひどくのんびりとした穏やかな景色が一面に広がっていた。
──あれからどのくらいの時間が過ぎたのか。
のろのろと身体を起こし、大きくため息をひとつ。
鈍く痺れたような頭で記憶の糸をたぐる。
最後の、記憶。
白面とやりあって、ぶっちめてやった。
獣にはなれそうにないくしゃくしゃのうしおの泣き顔と……縋るようにわしの名を呼ぶ声と、
伸ばされた腕の温かさと。
それでわしは……。
「ああ……とうとうここへ来たのだね……」
ふと、背後で声がした。記憶の糸をたぐる手が止まる。
『誰でぇ!』
振り返るとひょろりと背の高い男がひとり、穏やかな笑みを浮かべて立っていた。
「見知った気配に惹かれて来てみれば。なるほど、おぬしであったか……」
『おめえ……』
目を細めて男を見つめるとらの脳裏に、遠い遠い昔の記憶が蘇る。
あの頃、無敵を誇っていたわしと……四日と四晩戦った、妙な人間。
──わしを獣の槍で縫いつけた、あのサムライ──
***
『あーあ。おめえとあの時やりあったりしなけりゃ、わしゃこんな目に遭わずに済んだのによ』
自分を思い出したらしいとらの口ぶりに、男は思わずくすりと笑った。
「それは済まなかった。ここにいるということは……おぬし、やはり良い妖だったのだな」
向けられた邪気のない笑顔。
その顔が……驚くほどうしおに似ていて、とらは一瞬呆けたような表情を浮かべて男を凝視する。
妖にまじまじと見つめられた男が、不思議そうな顔をした。
「……どうかしたのか?」
問い掛けられて、とらはきまり悪げに目を伏せる。
それから忌々しいとでも言いたげに鼻の頭にしわを寄せ、舌打ちをした。
『何下らねぇこと言ってやがる。……ま、済んじまったことだし、もうどうでもいいけどな』
心持ち俯いたとらの頬を、長い金色の髪がさらりと撫でていく。
男は笑みを浮かべたままとらの隣に腰を下ろした。
「なあ、おぬしは出会ったのだろう?……おぬしの、背後を守る者に」
屈託のない笑顔にちらりと視線を向けて、とらは小さなため息をひとつ吐く。
『……ふん。面白かねぇが……おまえの言ったとおりだったな…』
***
男はただ黙ってとらの話を聞いていた。
獣の槍の封印が解かれて以降の、うしおと共に過ごした日々のこと。
それは永遠とも呼べる時間を生きてきたとらにとっては
瞬きをするよりも短い、ほんの一瞬の出来事。
とらは自分自身に言い聞かせるかのようにぽつりぽつりと言葉を紡いだ。
言葉が途切れて、ふぅ、と大きく息を吐いたのは男の方だった。
「おぬしは案外……幸せだったのかもしれんなぁ」
目を瞬かせて男は泣き笑いのような顔をとらに向ける。
『けっ、ばーか。妖に幸も不幸もあるかよ』
鼻を鳴らして笑うとらに、目元をうっすらと紅く染めた男が小首を傾げた。
「…そうなのか? 儂にはそうは見えなんだが」
『おめえ…目がおかしいんじゃねぇのか?』
男は僅かに憂いを含んだ眼差しで傍らに座るとらを見つめる。
「やれやれ。おぬしは案外と……己の気持ちに疎いのだねぇ」
『……は? おまえ、何言ってやがる』
とらは男の言葉にきょとんと目を見開く。
男は穏やかな笑みを湛えたまま言葉を続けた。
「おぬしにとってその子供は……儂にとっての「みさを」と同じ存在だということだろう?」
男の言葉を受けて、とらの眉間に深いしわが刻まれる。
『……意味、分かんねぇ……。何でうしおとおまえの女が同じなんだよ。
おまえはあの時、あの女を喰うために助けたのかよ? 違うだろ?
わしはあいつを喰うために、ずっと取り憑いて側に……』
言い募るとらの言葉を、男のくすくすと笑う声が遮った。
「おぬしは喰うためにその子供に憑いていたと言ったけれど、
どうやらおぬしが先に……その子供に喰われていたようだねぇ……」
『……』
痛みを堪えているかのような表情にちらりと視線をやって、男が口を開く。
「おぬしも……今はもう、独りは寂しいと……そう思うのだろう?」
ぽつりと零された男の言葉が、とらの胸にじんわりと染み込んだ。
視線を落とした先にある、大きな手と指先の鋭い爪。
妖として生きてきた、己の姿。
『……この牙で人間どもを喰いちぎり、この爪で妖どもを引き裂き、
そうやってずっと独りで……わしは長いこと、暗闇の中を歩いてきたのよ。
だけど、おっかしいよな。
今までずっと、独りで闇の中を歩くのなんざ当然だと思ってたのによ、
あの馬鹿と出会ってから、認めたくなんざねぇけど……歩き方を忘れちまったみてぇだ。
こんなことならあいつをさっさと喰っちまえば良かった。
馬鹿が伝染ったのか……わしともあろうものがすっかり腑抜けになっちまってよ、
みっともねえったらありゃしねぇ』
自嘲気味に話すとらに、男は慈しみと優しさを込めてゆっくりと言った。
「おぬしは、その子供を……心底好いていたのだね……。
そして、その子供も……同じようにおぬしを好いていたようだ……」
『……わしが、うしおを好いていた……? うしおも、わしを……?』
とらの呟きに男が頷く。
「本当はとうに気付いていたというのに……。
だが、言葉で言わずとも伝わる想いというものも……また、あるのだよ」
男はついと立ち上がって、前方に見える小さな池を指差した。
「あの場所から此岸の様子が見える。行って覗いてみるといい」
とらは億劫そうに立ち上がると、男が指差した池へと足を向けた。
その後姿を眺めながら、男が小さく笑って呟く。
「……その子供と出会って、おぬしはようやっと、生きるということの意味に気付いたのだねぇ。
だから喰うことよりも、側にいて共に生きることを……選んだのだろう……?」
***
そこから見えるのは、今はもう遠い風景と……懐かしい者たちの顔。
済んだことだと言ったのに、知らずとらの視線はうしおの姿を求めて覗き込んだ世界を彷徨う。
金色の髪が澄んだ水面にはらはらと降り注ぎ、いくつもの小さな波紋を広げる。
ようやく紺色の制服に身を包んだ姿を見つけた時、
偶然なのか……うしおは淡く笑みを浮かべて頭上を振り仰いだ。
ああそうだ、わしはこいつの笑った顔や真っ直ぐな瞳を……好いていた……。
見上げたうしおの瞳が寂しげに揺れたのが分かった。
そのまま、わしの名を小さく呼んだ唇。
それを色をなくすほど強く噛んで、ぎゅっと目を閉じて零れそうになった涙を堪えた姿。
おまえは……わしが還るということを信じているというのか。
──妖はどっちにしろ、いつかは蘇るがな──
わしが最期に言った言葉が……おまえをそうさせているのか。
──獣は涙を流さねえ。おめえなんざ…わしにゃなれねえよ──
おまえが涙を見せずにいるのは……そういうことなのか。
……ああ何だ……そういうことだったのかよ……。
馬鹿みてぇなわしの戯言を信じてるうしおも、
その戯言を信じてるうしおを目の当たりにして、
阿呆みてぇに胸の辺りをざわつかせているわしも……。
『……下らねぇ、愚か者だな……』
ぽつりと零した言葉が水面を震わせ、覗き込んだ世界がゆっくりと閉じていく。
***
「もうそろそろ……おぬしも行くべき処へ、行かねばならぬ刻が来たようだ……」
振り返ると、男の姿が眩い光に包まれ急速に薄れていくのが見えた。
とらの意識にも徐々に霞がかかり始め、そうか眠くなったのだと鈍くなった頭の隅でちらりと思う。
ついに言葉には出来なかった己のその想いを、此岸に残してきたうしおは知っている。
──それならもう、わしはゆっくり眠っていてもいい──
わしはいずれ、うしおのもとへと還るだろう。
永遠の時の淵で、輪廻の輪の中で。
再びうしおと出会うその日を、
もういちど名を呼ぶ声が耳に届くその日を、
……わしはただ待とう。
幾度姿が変わっても、うしおにならわしが見つけられる。
うしおにしかわしは見つけられない。
それは確信にも似た予感。
満足げな笑みを浮かべ、とらは残っていた僅かな意識を手放す。
ふつりと途切れた意識は、昏く深い眠りの中へゆるゆると沈んでいった。
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