帰還
此岸でも彼岸でもない、暖かで、薄明るい場所。
とらはそこでウトウトと睡微んでいた。
もう長いこと、ずっとここにいたような気もするし、そうではなかったような気もする。
何かを思い出そうとしても、その記憶はひどく曖昧で形を成さない。
(……いずれにしても、もう過ぎたことだ……)
ぼんやりとした意識の片隅で、ちらりとそんなことを思う。
ふわりと風が吹いて、淡く花の匂いを運んでくる。
急に──意識が遠くなるのを感じた。
(あぁ……何だか眠たくなってきたな……)
瞼が重くなって、呼吸がひどくゆっくりしたものになる。
ほんの少し、眠りの淵から逃れようと抵抗してみたものの、
時既に遅く、とらはそのまま深く深く眠りに落ちていった。
どのくらいの時間が過ぎたのだろう。
昏々と眠るとらのいる場所の背後、遠くの方がぽっ、と明るくなる。
その柔らかで淡い光の中に大小ふたつの影が浮かんだ。
微かな衣擦れの音と、軽やかな足音。
それがとらの方へ近付いてくる。
光の奥からやってきたのは、白い布を身に纏った清楚な雰囲気の若い女と、
頭にターバンを巻いた大きな瞳が印象的な少年。
ふたりは眠っているとらの側へやって来ると静かに座る。
しばらくその寝顔を見ていたが、少年がそろそろと手を伸ばして、とらに触れる。
「シャガクシャさま、起きて下さい」
小さな手で、大きなとらの身体を揺すって起こそうとしているが、とらが目を覚ます気配はない。
側らの少年と顔を見合わせた若い女は、淡く笑むととらの肩に手を伸ばす。
「シャガクシャさま、もうお起きになって下さい」
凛とした静かな声がとらの耳元で響く。
その声が聞こえたのか、とらが眉根を寄せて微かに身じろぎする。
その姿を見て、ぱっと表情を明るくした少年が再びとらの身体を揺する。
「シャガクシャさま、もう起きて下さい。起きる時間ですよ」
微かに睫を震わせて、とらがゆっくりと目を開ける。
焦点の定まらない視界。
二度三度瞬きをすると、ふたつの顔が心配そうな表情でとらを覗き込んでいる。
とらと目が合うと、少年は嬉しそうに隣に座る若い女の顔を見上げる。
「姉ちゃん、シャガクシャさまがお起きになったよ」
少年に姉と呼ばれた若い女が、とらに向かって微笑むと口を開いた。
「シャガクシャさま、おはようございます」
とらはのろのろと身体を起こす。思考にはまだぼんやりと霞がかかっている。
見知らぬふたりの人間が呼び掛ける名は、己の知るものではないはずなのに。
(知らねぇはずの名に、何でこんなに落ち着かねぇ心持ちになるんだ……?)
「シャガクシャさま、お元気そうで何よりです」
気持ちの揺らぎに戸惑いを隠せないとらに、少年が眩しいくらいの笑顔を向ける。
「本当はもっとお休みになっていたいでしょうけれど……。
シャガクシャさまは、もうどちらを選ぶかを決めなければなりません」
若い女がとらに優しく微笑んで言った。
笑いかけるふたつの顔。
何故か胸が苦しくなって、そのことにとらはひどく驚く。
(わしは、こいつらを知っている……?)
(知っているような気がするが……思い出せない……)
『わしを、知っているのか?』
掠れた声で、とらは女に問うた。
とらの言葉に、女はほんの少し寂しげな表情を浮かべる。
「……まだ、記憶が戻られておられないようですね……」
少年が肩から提げた鞄の中から赤いものを取り出すと、それをとらの手のひらに乗せた。
りんご……?
「あの時、シャガクシャさまが下さったりんごです。
オレは……食べられなかったけれど、でもすごく嬉しかった」
赤い色の中に遠い記憶が浮かぶ。血と炎に彩られた過去。
では……では、おまえは……。
とらの姿が金色の妖から人だった頃の姿へ変化する。
遥か遠い昔、シャガクシャと呼ばれていた若者の姿がそこに現れた。
『……ラーマ……』
とらの目から涙が零れた。
名を呼ばれた少年はとらの姿を見て嬉しそうな顔で言う。
「ああ、人だった頃のことも、オレのことも思い出して下さったんですね。
あれから……姉ちゃんもオレも、ずっとシャガクシャさまを心配していました」
ラーマの言葉に笑みを湛えたまま黙って頷く姉。
とらは顔を覆って搾り出すような声で言う。
『オレは…、おまえたちが言うような立派な奴なんかじゃなかったんだ…・・・。
ずっと周りの連中を憎んでいたし、オレを蔑んだ人間は皆死ねばいいとさえ思っていた。
おまえたちのような温かい心など、ずっと知らずに生きていたんだ……。
それが、己の身体の中であんな妖を育ててしまった……』
とらは深く深く俯く。
『おまえたちふたりは……オレの殺伐とした人生の中で、唯一ともいえる安らぎであり、太陽だった。
それを失って、ありとあらゆるものを恨み、憎んだ……。憎しみだけがオレを生かしてきたんだ……』
とらの震える肩を、女がそっと抱く。
「ですが、それをずっと悔いていらしたのでしょう?……あなたは今まで、死ぬことすら叶わなかった。
そうやって、ずっと戦っていらしたこと、私もラーマも十分知っています……」
女はとらを抱いたまま言葉を続ける。
「温かい心ならもう……シャガクシャさまはお持ちになってるじゃありませんか。
それに……シャガクシャさまを生かしてきたのは、決して憎しみだけではありません」
女が懐から小さな鏡を取り出すと、とらに鏡面が見えるように差し出す。
「ご覧になれますか?」
とらが鏡を覗き込む。
そこに映っているのは、紺色の服に身を包んだひとりの少年の姿。
少年は玄関を飛び出し、門をくぐり、蔵の前で立ち止まる。
瞬間、少年の顔が歪む。
(……あんな顔なんて、する必要ねぇのによ……)
痛みを堪えるような少年のその表情に、とらの胸が波立つ。
鏡の表面がゆらりと揺らぐ。
そこに映った制服姿の少女を見て、胸の奥がちくりと痛んだ。
誰かに何事かを話しかけられて、少女は目にうっすらと涙を浮かべる。
(……また泣いてやがるのか……)
後から来た少年に手を取られて少女は駆け出す。
再び鏡の表面が揺らいで、自分の顔が映った。
(まだ人だった頃の、わしの姿だな……)
『わしは、何を決めなければならない?』
とらは静かに女に問う。
「彼岸へ渡り転生を待つか、再度此岸へ渡り、あの者たちと共に生きるかを」
淡く笑んで、女は答える。
「シャガクシャさまは、とらという名も持っておられますね。
ふたつの名を持つ者は、ふたつの生を生きる……」
『だが、わしにはもう……戻る身体はねぇ』
「ですが……シャガクシャさまは、あちらに心残りが、おありになるのでしょう?」
姉の言葉を受けて、ラーマが立ち上がって言う。
「だったら、もう一度、彼らと一緒に生きてみたらどうですか?
オレにもシャガクシャさまは心残りがおありになるように見えます。
それに……心残りがあるままでは、彼岸へは渡れないんです」
ラーマの言葉にとらははっとする。
『……おまえたち、もしや……』
──2000年以上も共に……わしを見守り続けたというのか?
にっこりと笑うラーマ。
「はい。これでやっと、姉ちゃんもオレも……」
ふたりの身体が眩い光に包まれはじめた。
『ラーマ……』
とらが伸ばしたその手に、ふたりはそっと触れる。
「シャガクシャさま、ここをまっすぐに行って下さい。迷いがなくなった時、向こう側に出られますから」
『だが……』
「大丈夫ですよ。彼らがきっと見つけてくれますから。……彼らの想いを、信じて下さい」
「私たち姉弟を覚えていて下さって、ありがとう…」
だんだんと姉弟の姿が光と同化して見えなくなる。
『待ってくれ! わしは……』
「オレたち姉弟はいつも、シャガクシャさまの側におります」
優しい声と笑顔を残して。
彼らの姿は柔らかく光に溶け、ふわりと空へ上っていった。
後に残されたのは、深い静寂。
薄暗がりの中、とらはひとり佇む。
(……わしは、帰りたいんだろうか……)
ラーマの指差した方を見ると、遠くにかすかな明かりが見える。
明かりを目指して、とらは黙々と歩く。
(……わしは、人なんだろうか、妖なんだろうか……)
歩いても歩いても、一向に明かりに近付く気配はない。
それでもとらはただ足を前に運ぶ。
(……わしは、何を選べばいいんだろうか……)
自問自答を繰り返す。答えは見つからない。
それでもとらは前へと進む。
──彼らの想いを、信じて下さい──
「とらちゃーん」「とらぁ!」
わしを呼ぶ…懐かしい、声。
ならば、選ぶべきは……。選ぶべき姿は……。
──わしは……わしは「とら」だ──
ふいに辺りの風景が歪む。
薄明るいまどろみに沈んでいた景色が、少しずつ闇に溶けていく。
ゆるく風を感じる。湿った土の匂い。足の裏に冷たい石の感触。
振り返ると、とらが出てきた場所は見る間に跡形もなくその場の空気と同化し、辺りに暗闇が満ちた。
──迷いがなくなった時、向こう側に出られますから──
光の差さない場所で、とらは思い切り息を吸い込み、伸びをして欠伸をひとつ。
暗闇に慣れた目で辺りを見回して、とらはここが見覚えのある場所だということに気付く。
──やれやれ、わしはやっぱり……ここに戻って来ちまうんだな。
──あいつと初めて出会った、この場所に。
ギシギシと音を立てて、頭上にぽっかりと白い空間が現れる。
降って来た強い光に、とらは思わず目を閉じる。
草と木の匂い。澱んだ空気がゆらりと動いた。
日の光を引き連れて暗闇の底に降りてきたのは、少年と少女。
少女が隣に立つ少年に向かってウインクする。
「ね? 絶対ここだと思ったの」
──土に通じる蔵の扉が、再び開いた──。
息を止めて、互いの顔を見つめあう。風が、吹き抜ける。
少女はその瞳を潤ませてとらを見つめている。
少年は目を真っ赤にしてとらを睨んでいる。
そのふたりの顔をとらはじっと見つめる。
ふいにその耳元に、ラーマの言葉が蘇る。
(オレたち姉弟はいつも、シャガクシャさまの側におります──)
少年のまっすぐな瞳に、ラーマのまなざしが重なる。
少女の微笑みの中に、ラーマの姉の面影を見つける。
……ああ、そういうことだったのか……。
ずっと、側にいたのに……今まで気付きもしなかった。
淡く笑みを浮かべ、地を蹴って。
とらはふたりの目の前にふわりと飛ぶとぼそりと言った。
『……ただいま』
とらを見つめる少女の瞳から涙が溢れた。
目を真っ赤にした少年は、そっぽを向いて口を開く。
「……遅ぇんだよ、このアホ妖怪……」
『うっるせぇぞ、うしおー』
言葉とは裏腹に、とらはひどく優しいまなざしで少年を見つめる。
とらの言葉で堪えきれなくなったように、少年の目からも涙が零れた。
とらはふたりの頭に手を伸ばしそっと撫でると、そのまま両腕で胸に抱いた。
「とらちゃん……お帰りなさい……」
とらの胸に顔を埋めて、少女が小さな声で言った。
『…・・・待たせたな、マユコ』
「ずっと……待ってたぜ……。とら、お帰り……」
『ああ。おめぇも待たせちまったな、うしお』
涙の跡の残る顔でとらを見上げる少年と少女。
とらの腕の中で互いの顔を見合わせて、照れたような笑みを浮かべる。
そのふたつの笑顔を見て、とらは胸の辺りがほわりと温かくなるのを感じた。
抱えた腕の中にふたりの体温を感じて、それでやっと…とらはこちらへ戻ってきたことを実感した。
止まっていたとらの時間が──再び、動き出す──。
その音を、三人は確かに耳にした。
とらはそこでウトウトと睡微んでいた。
もう長いこと、ずっとここにいたような気もするし、そうではなかったような気もする。
何かを思い出そうとしても、その記憶はひどく曖昧で形を成さない。
(……いずれにしても、もう過ぎたことだ……)
ぼんやりとした意識の片隅で、ちらりとそんなことを思う。
ふわりと風が吹いて、淡く花の匂いを運んでくる。
急に──意識が遠くなるのを感じた。
(あぁ……何だか眠たくなってきたな……)
瞼が重くなって、呼吸がひどくゆっくりしたものになる。
ほんの少し、眠りの淵から逃れようと抵抗してみたものの、
時既に遅く、とらはそのまま深く深く眠りに落ちていった。
どのくらいの時間が過ぎたのだろう。
昏々と眠るとらのいる場所の背後、遠くの方がぽっ、と明るくなる。
その柔らかで淡い光の中に大小ふたつの影が浮かんだ。
微かな衣擦れの音と、軽やかな足音。
それがとらの方へ近付いてくる。
光の奥からやってきたのは、白い布を身に纏った清楚な雰囲気の若い女と、
頭にターバンを巻いた大きな瞳が印象的な少年。
ふたりは眠っているとらの側へやって来ると静かに座る。
しばらくその寝顔を見ていたが、少年がそろそろと手を伸ばして、とらに触れる。
「シャガクシャさま、起きて下さい」
小さな手で、大きなとらの身体を揺すって起こそうとしているが、とらが目を覚ます気配はない。
側らの少年と顔を見合わせた若い女は、淡く笑むととらの肩に手を伸ばす。
「シャガクシャさま、もうお起きになって下さい」
凛とした静かな声がとらの耳元で響く。
その声が聞こえたのか、とらが眉根を寄せて微かに身じろぎする。
その姿を見て、ぱっと表情を明るくした少年が再びとらの身体を揺する。
「シャガクシャさま、もう起きて下さい。起きる時間ですよ」
微かに睫を震わせて、とらがゆっくりと目を開ける。
焦点の定まらない視界。
二度三度瞬きをすると、ふたつの顔が心配そうな表情でとらを覗き込んでいる。
とらと目が合うと、少年は嬉しそうに隣に座る若い女の顔を見上げる。
「姉ちゃん、シャガクシャさまがお起きになったよ」
少年に姉と呼ばれた若い女が、とらに向かって微笑むと口を開いた。
「シャガクシャさま、おはようございます」
とらはのろのろと身体を起こす。思考にはまだぼんやりと霞がかかっている。
見知らぬふたりの人間が呼び掛ける名は、己の知るものではないはずなのに。
(知らねぇはずの名に、何でこんなに落ち着かねぇ心持ちになるんだ……?)
「シャガクシャさま、お元気そうで何よりです」
気持ちの揺らぎに戸惑いを隠せないとらに、少年が眩しいくらいの笑顔を向ける。
「本当はもっとお休みになっていたいでしょうけれど……。
シャガクシャさまは、もうどちらを選ぶかを決めなければなりません」
若い女がとらに優しく微笑んで言った。
笑いかけるふたつの顔。
何故か胸が苦しくなって、そのことにとらはひどく驚く。
(わしは、こいつらを知っている……?)
(知っているような気がするが……思い出せない……)
『わしを、知っているのか?』
掠れた声で、とらは女に問うた。
とらの言葉に、女はほんの少し寂しげな表情を浮かべる。
「……まだ、記憶が戻られておられないようですね……」
少年が肩から提げた鞄の中から赤いものを取り出すと、それをとらの手のひらに乗せた。
りんご……?
「あの時、シャガクシャさまが下さったりんごです。
オレは……食べられなかったけれど、でもすごく嬉しかった」
赤い色の中に遠い記憶が浮かぶ。血と炎に彩られた過去。
では……では、おまえは……。
とらの姿が金色の妖から人だった頃の姿へ変化する。
遥か遠い昔、シャガクシャと呼ばれていた若者の姿がそこに現れた。
『……ラーマ……』
とらの目から涙が零れた。
名を呼ばれた少年はとらの姿を見て嬉しそうな顔で言う。
「ああ、人だった頃のことも、オレのことも思い出して下さったんですね。
あれから……姉ちゃんもオレも、ずっとシャガクシャさまを心配していました」
ラーマの言葉に笑みを湛えたまま黙って頷く姉。
とらは顔を覆って搾り出すような声で言う。
『オレは…、おまえたちが言うような立派な奴なんかじゃなかったんだ…・・・。
ずっと周りの連中を憎んでいたし、オレを蔑んだ人間は皆死ねばいいとさえ思っていた。
おまえたちのような温かい心など、ずっと知らずに生きていたんだ……。
それが、己の身体の中であんな妖を育ててしまった……』
とらは深く深く俯く。
『おまえたちふたりは……オレの殺伐とした人生の中で、唯一ともいえる安らぎであり、太陽だった。
それを失って、ありとあらゆるものを恨み、憎んだ……。憎しみだけがオレを生かしてきたんだ……』
とらの震える肩を、女がそっと抱く。
「ですが、それをずっと悔いていらしたのでしょう?……あなたは今まで、死ぬことすら叶わなかった。
そうやって、ずっと戦っていらしたこと、私もラーマも十分知っています……」
女はとらを抱いたまま言葉を続ける。
「温かい心ならもう……シャガクシャさまはお持ちになってるじゃありませんか。
それに……シャガクシャさまを生かしてきたのは、決して憎しみだけではありません」
女が懐から小さな鏡を取り出すと、とらに鏡面が見えるように差し出す。
「ご覧になれますか?」
とらが鏡を覗き込む。
そこに映っているのは、紺色の服に身を包んだひとりの少年の姿。
少年は玄関を飛び出し、門をくぐり、蔵の前で立ち止まる。
瞬間、少年の顔が歪む。
(……あんな顔なんて、する必要ねぇのによ……)
痛みを堪えるような少年のその表情に、とらの胸が波立つ。
鏡の表面がゆらりと揺らぐ。
そこに映った制服姿の少女を見て、胸の奥がちくりと痛んだ。
誰かに何事かを話しかけられて、少女は目にうっすらと涙を浮かべる。
(……また泣いてやがるのか……)
後から来た少年に手を取られて少女は駆け出す。
再び鏡の表面が揺らいで、自分の顔が映った。
(まだ人だった頃の、わしの姿だな……)
『わしは、何を決めなければならない?』
とらは静かに女に問う。
「彼岸へ渡り転生を待つか、再度此岸へ渡り、あの者たちと共に生きるかを」
淡く笑んで、女は答える。
「シャガクシャさまは、とらという名も持っておられますね。
ふたつの名を持つ者は、ふたつの生を生きる……」
『だが、わしにはもう……戻る身体はねぇ』
「ですが……シャガクシャさまは、あちらに心残りが、おありになるのでしょう?」
姉の言葉を受けて、ラーマが立ち上がって言う。
「だったら、もう一度、彼らと一緒に生きてみたらどうですか?
オレにもシャガクシャさまは心残りがおありになるように見えます。
それに……心残りがあるままでは、彼岸へは渡れないんです」
ラーマの言葉にとらははっとする。
『……おまえたち、もしや……』
──2000年以上も共に……わしを見守り続けたというのか?
にっこりと笑うラーマ。
「はい。これでやっと、姉ちゃんもオレも……」
ふたりの身体が眩い光に包まれはじめた。
『ラーマ……』
とらが伸ばしたその手に、ふたりはそっと触れる。
「シャガクシャさま、ここをまっすぐに行って下さい。迷いがなくなった時、向こう側に出られますから」
『だが……』
「大丈夫ですよ。彼らがきっと見つけてくれますから。……彼らの想いを、信じて下さい」
「私たち姉弟を覚えていて下さって、ありがとう…」
だんだんと姉弟の姿が光と同化して見えなくなる。
『待ってくれ! わしは……』
「オレたち姉弟はいつも、シャガクシャさまの側におります」
優しい声と笑顔を残して。
彼らの姿は柔らかく光に溶け、ふわりと空へ上っていった。
後に残されたのは、深い静寂。
薄暗がりの中、とらはひとり佇む。
(……わしは、帰りたいんだろうか……)
ラーマの指差した方を見ると、遠くにかすかな明かりが見える。
明かりを目指して、とらは黙々と歩く。
(……わしは、人なんだろうか、妖なんだろうか……)
歩いても歩いても、一向に明かりに近付く気配はない。
それでもとらはただ足を前に運ぶ。
(……わしは、何を選べばいいんだろうか……)
自問自答を繰り返す。答えは見つからない。
それでもとらは前へと進む。
──彼らの想いを、信じて下さい──
「とらちゃーん」「とらぁ!」
わしを呼ぶ…懐かしい、声。
ならば、選ぶべきは……。選ぶべき姿は……。
──わしは……わしは「とら」だ──
ふいに辺りの風景が歪む。
薄明るいまどろみに沈んでいた景色が、少しずつ闇に溶けていく。
ゆるく風を感じる。湿った土の匂い。足の裏に冷たい石の感触。
振り返ると、とらが出てきた場所は見る間に跡形もなくその場の空気と同化し、辺りに暗闇が満ちた。
──迷いがなくなった時、向こう側に出られますから──
光の差さない場所で、とらは思い切り息を吸い込み、伸びをして欠伸をひとつ。
暗闇に慣れた目で辺りを見回して、とらはここが見覚えのある場所だということに気付く。
──やれやれ、わしはやっぱり……ここに戻って来ちまうんだな。
──あいつと初めて出会った、この場所に。
ギシギシと音を立てて、頭上にぽっかりと白い空間が現れる。
降って来た強い光に、とらは思わず目を閉じる。
草と木の匂い。澱んだ空気がゆらりと動いた。
日の光を引き連れて暗闇の底に降りてきたのは、少年と少女。
少女が隣に立つ少年に向かってウインクする。
「ね? 絶対ここだと思ったの」
──土に通じる蔵の扉が、再び開いた──。
息を止めて、互いの顔を見つめあう。風が、吹き抜ける。
少女はその瞳を潤ませてとらを見つめている。
少年は目を真っ赤にしてとらを睨んでいる。
そのふたりの顔をとらはじっと見つめる。
ふいにその耳元に、ラーマの言葉が蘇る。
(オレたち姉弟はいつも、シャガクシャさまの側におります──)
少年のまっすぐな瞳に、ラーマのまなざしが重なる。
少女の微笑みの中に、ラーマの姉の面影を見つける。
……ああ、そういうことだったのか……。
ずっと、側にいたのに……今まで気付きもしなかった。
淡く笑みを浮かべ、地を蹴って。
とらはふたりの目の前にふわりと飛ぶとぼそりと言った。
『……ただいま』
とらを見つめる少女の瞳から涙が溢れた。
目を真っ赤にした少年は、そっぽを向いて口を開く。
「……遅ぇんだよ、このアホ妖怪……」
『うっるせぇぞ、うしおー』
言葉とは裏腹に、とらはひどく優しいまなざしで少年を見つめる。
とらの言葉で堪えきれなくなったように、少年の目からも涙が零れた。
とらはふたりの頭に手を伸ばしそっと撫でると、そのまま両腕で胸に抱いた。
「とらちゃん……お帰りなさい……」
とらの胸に顔を埋めて、少女が小さな声で言った。
『…・・・待たせたな、マユコ』
「ずっと……待ってたぜ……。とら、お帰り……」
『ああ。おめぇも待たせちまったな、うしお』
涙の跡の残る顔でとらを見上げる少年と少女。
とらの腕の中で互いの顔を見合わせて、照れたような笑みを浮かべる。
そのふたつの笑顔を見て、とらは胸の辺りがほわりと温かくなるのを感じた。
抱えた腕の中にふたりの体温を感じて、それでやっと…とらはこちらへ戻ってきたことを実感した。
止まっていたとらの時間が──再び、動き出す──。
その音を、三人は確かに耳にした。