午後のパノラマ

土曜日の放課後。
学校の屋上で真由子はのんびりと春の日差しを浴びる。
側に座る金色の大きな妖──とら──は、先ほどから無言でハンバーガーを食べている。
口をもぐもぐと動かしながら早くもがさごそと袋の中に手を突っ込み、
中から新たなハンバーガーを取り出す。
「とらちゃん、美味しい?」
とらの顔を覗き込んで真由子が尋ねた。
『ああ。生きたまま喰らう人間にゃ敵わねぇが……はんばっかもなかなか美味ぇな』
とらの言葉にちょっと顔を顰めた後で、真由子は嬉しそうに笑う。
袋の中身はとらの好物のてり焼きバーガーが5つ。
真由子が今朝、とらのために買ってきたものだ。
黙々とハンバーガーを頬張るとらの姿を、
目を細めて眺めていた真由子の脳裏に唐突にある疑問が浮かんだ。
(食事をするんだから、とらちゃんだってトイレに行ったりするんだよね……?)
(そういえば、普段はどうしてるんだろう……?)
隣にある身体はとても大きく、家や学校のトイレがそのまま使えるとは思えない。
(あ、でも変幻自在なんだっけ。人間の姿で行くのかしら?)
けれど、今まで一度だってトイレに席を立つとらの姿を見た記憶はなかった。
食事中のマナー違反であることは重々承知しているが、それでも一度気になりだしたら止まらない。
とらは早くも2つ目のハンバーガーを食べ終え、3つ目の包み紙をベリベリと豪快に破いている。
あーんと大きく開けた真っ赤な口の中で、鋭い歯が日差しを反射してきらりと光った。
「ねぇ、とらちゃん」
真由子に呼ばれて、とらの手が止まる。
『あぁ? 何だよ、マユコ』
「あのね、食事中にこんなこと聞くのも何だけど……」
『いいから、何だ?』
「とらちゃん、いつもたくさん食べてくれるけど……その、トイレとか平気なの?」
『といれ?』
真由子の質問は妖であるとらにとって、思いがけないものだった。
手の中のハンバーガーに落とした視線を上げると、不思議そうな顔がこちらをじっと見ている。
とらの脳裏に数日前、青い顔で「といれ! といれ!」と喚きながら、
獣の槍片手に個室へ飛び込んでいったうしおの姿が浮かぶ。
あいつが慌てて入っていった場所は……。
『……ああ、厠のことか。うしおのバカは、よく腹を壊して駆け込んじゃいるが……』
とらは手にしたハンバーガーを口に放り込み、むぐむぐと咀嚼する。
ごくり、と飲み込んで、とらはそれから口を開く。
『……あのな、マユコ。わしが妖だということは、当然分かってるんだよな?』
「うん」
『妖が厠なんぞ利用すると思うか?』
「ううん、だってとらちゃんの大きさだったら、うしおくんの家のトイレには入れないでしょう?」
その言葉にとらは口をあんぐりと開ける。
目の前の娘はどうも、根本的に何か大きな勘違いをしているらしい。
『それじゃアレか? わしがどっか……その辺で済ませているとでも思ってるのか?』
「うーん、そういう時もあるかもしれないし、
もしかしたら…とらちゃんみたいに大きな妖さん専用のトイレがあるのかな? とか、
とらちゃん変身出来るから、そういう時は人間の姿になるのかもしれないな、って思って」
真由子の言葉に盛大にため息を吐いて、とらはげんなりとした顔で首を左右に振る。
金色の髪が春の日差しの中できらきらと輝いた。
『……あのな、妖は厠なんぞ行かねぇ。おめぇら人間みたいに排泄作業は必要ねぇんだ』
「え? そうなの? じゃあ、食べたものは……」
とらは袋からまたひとつハンバーガーを取り出すと、それを手のひらに乗せて真由子の前に差し出す。
『おめぇら人間は、これを喰っても全部を自分の糧にゃ出来ないんだろ?
だから排泄なんて面倒な作業が必要になるんだよな。
でもな……妖は喰ったものを全部自分の糧に出来るのよ。
喰ったものは何ひとつ無駄にしねぇ、それが妖』
真由子が大きな手の上のハンバーガーと、とらの顔を交互に見つめる。
「食べたものが、全部……とらちゃんになるの?」
手のひらに乗せたてり焼きバーガーは、今も美味しそうな匂いを辺りに撒き散らしている。
ぺろりと舌なめずりをして、とらは包みをはがすと口に運ぶ。
丸いバーガーは齧られて三日月のかたちになった。
『そうだな、このはんばっかもわしの一部になるんだな。
それは力かもしれねぇし、わしの毛や爪かもしれねぇ。さすがに何になるかまでは分からねぇが……』
「ふぅん……」
真由子が真剣な目でとらをじっと見つめる。
目の前で手の中の三日月は瞬く間に口の中に消えた。
「じゃあ……とらちゃんに食べられたら……私も、とらちゃんの一部になれるんだねぇ」
そう言って真由子は夢見るようにふうわりと微笑む。
「私は……そうね、とらちゃんのそのきれいな髪になりたいな。
それでね、とらちゃんが空を駆けるとき、一緒に風を切ってなびくの」
そよ風に揺れる金色の髪にそっと指を伸ばして、真由子はとらに言う。
「とらちゃん……いつか絶対、私を食べてね」
真由子の言葉に、とらは呆れたように口を開く。
『けっ、下らねぇこと言ってんじゃねぇ。おめぇにゃ何度言っても分からねぇかよ?
おめぇはわしが喰うんだ! 他の妖なんぞに易々と喰われようとするんじゃねーぞ、マユコ』
「はぁい。私、とらちゃんに食べられるー。とらちゃん、絶対絶対約束だよ。でも……」
『あぁ?』
露骨に嫌そうな顔をするとらに、真由子はくすくすと笑い声を零す。
「でも、もし私が他のおばけに食べられそうになったら……とらちゃんが、助けてくれるんだよね?」
鼻の頭に不機嫌そうにしわを寄せて、とらが舌打ちする。
『……しゃーねぇなぁ! いいか、おめぇのその美味そうな身体は、
髪の一筋、血の一滴だって全部わしのもんだ。
他の妖になんざ絶対やらねぇ。
わしからおめぇを横取りして喰らおうとする奴はわしがぶっ殺してやるぜ!』
「うふふー、とらちゃんありがとー!」
とらの物騒な言葉に、真由子は嬉しくて仕方ないとでも言うように笑う。
『……やぁってらんねぇ……』
盛大に溜息を吐いて、とらは頭に手をやるとがりがりと掻く。
袋の中のハンバーガーは最後の1つ。
まだにこにこと笑っている真由子にちらりと視線をやって、
とらはそっぽを向いたままハンバーガーを袋ごと真由子に突き出す。
真由子はきょとんとした顔で目の前の袋ととらの横顔を見ている。
『残りの1つはおめぇが喰え!』
「え? でも、これはとらちゃんに……」
『いいから! これはおめぇの分なんだよ!』
とらは袋から最後のハンバーガーを取り出し、包みを破くと真由子の手の上に乗せる。
『これはおめぇの……その、ノー天気な笑い顔のモトだ』
とらの言葉に真由子の笑顔がぱぁ、っと弾けた。
「うん……ありがとう。とらちゃん、いただきまぁす」
手の上のハンバーガーを大事そうに両手で包むと、
真由子はとらの隣にちょこんと座ってハンバーガーを口に運ぶ。
嬉しそうに、幸せそうに微笑んでハンバーガーを食べる真由子を見て、
とらはこういうのも悪くねぇな、と思う。
「とらちゃん、美味しかったー。ごちそうさま」
食べ終えて、てり焼きソースでぺたぺたになった真由子の指。
お店の人が入れてくれたおしぼりを袋の中から取り出そうとした真由子の手を、
鋭い爪の生えた手が傷付けないようにそっと掴む。
何事かと真由子が見つめる目の前で、掴まれた手にとらの大きな口が近付くと
真っ赤な舌が真由子の指先をぺろりと舐めた。
指先に触れる湿った感触に心臓がとくん、と跳ね上がる。
『ふーん、これもなかなか……』
とらは満足そうな笑みを浮かべ、
尚も真由子の指先に付いたてり焼きソースを舌で丁寧に舐め取っている。
耳まで赤くなった真由子が慌てて手を引こうとするが、とらにしっかりと握られたままびくともしない。
「や…っ! とらちゃん……?」
とらは真っ赤な顔で慌てる真由子をちらりと見て、にやりと笑う。
『これはわしの「でざぁと」だ』
「えぇっ!」
『「でざぁと」は、食事の最後に決まってるだろ? マユコ』
「……バカ……」
真由子は精一杯の恐い顔でとらを睨むが、それも長くは続かない。
指先に優しく触れる柔らかで温かな感触が、すぐに真由子の表情をふわりと溶かしてしまう。
恥ずかしそうに、でも嬉しさを隠せずに、真由子はされるがまま、幸せそうにとらを見つめ微笑んでいた。
ぺろりぺろりととらが舐める真由子の指先も、とらの金色の髪も、真由子の赤い頬も。
微かにそよぐ春風が──そっと、撫でていった。



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